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雪の音 1

 17, 2012 23:31
 もう何も残ってはいない。守る者も守ってくれる者も今はいない。全ての枷から外れ自分は自由なのだと考えても、本当は寂しくて仕方がなかった。

 幼い頃から温かい家庭とは縁がなかったが、十歳も年の離れた妹だけは可愛かったし、可愛がった。だがその妹も母に手を引かれ新しい家族の元に行ってしまう。
 妹が三歳の時、やっと母は離婚を決意した。物心ついた妹が酔った父に脅え泣き叫ぶから。
 両親の離婚で、家族がばらばらになる事など、世間では珍しい事ではない。父親のDⅤに泣かされた母が幸せになればいいと思った。義父は一緒に来いと言ってくれたが、その目の中に戸惑いの色を見た。もうお互いに気兼ねまでして、生きなくてはならない程子供ではない。その分、妹を大事にしてくれればと願った。その為には自分が近くにいない方がいい。だが、実の父親の元には帰る気持ちなど微塵もない。

「はぁ……冷たくて気持ちいいな……」
 優斗は誰もいない公園の白い大地に身を投げ出し、大の字に寝転んだ。公園の脇を通り過ぎる人はちらっと視線を投げかけても、声を掛けることはいない。今夜にはこの土地を離れる。優斗にしてみれば大地に抱かれる最後の時だ。誰にも邪魔はされたくなかったので、人々の無関心は丁度良かった。

 生まれた時から、この北の大地に育ち雪にまみれていた。東京へ行けばもうそんな機会などないのだ。あまり良い思い出のない土地だった。清々する。その思いが強がりだと分かっていながら優斗は、手の平に触れた雪をぎゅっと握りしめた。


 桐山優斗、今日二十歳になった。

 高校を卒業してアルバイトを掛け持ちし貯めた僅かな金と、旅行鞄ひとつだけを持ってこの街を出ようとしていた。この時はまだ将来に夢も希望もあった。
「やばっ、飛行機に乗り遅れる」
 母親の再婚相手が買ってくれたチケットだ、無駄には出来ない。東京への片道切符だけで優斗は体よく――捨てられた。いや、自分が差し伸べられた手を取らなかったのだ、それでも捨てられたような気がしていた。父親の戸籍に入ったままの優斗に対して、母の再婚相手は何の責任もない。切符だけでも有難いと思わなければならない。
 優斗が立ち上がろうとした時に、真上から覗き込む顔があった。

「君、具合でも悪いの?」
 黒いコートを身に纏った男が心配そうな顔をして優斗を見ていた。
(高そうなコートだな……)
 優斗は、問いかけには答えずに、その一目で高級と分かるコートを見ていた。
「大丈夫? 立てないのかな? 救急車呼んだ方がいい?」
 偽善者なのか人がいいのか分からない視線と言葉を、この男は簡単に優斗に投げかける。
「大丈夫です」
 優斗は男が差し出した手を無視して元気よく立ち上がり、ぱんぱんと体に付いた雪を払って鞄を手に持った。
「じゃあ」
 これ以上ここに立ち止まるのは時間の無駄だ。そう思って優斗は男に軽く会釈をすると駅に向かって歩き出した。
 残された男は、少し驚いた顔でその後ろ姿を眺めている。

「社長、そろそろ時間ですよ」
 男の背後から、フレームレスの眼鏡を掛けた男が声を掛ける。
「ああ、魅力的な目をしていた。名前を聞いておけば良かったかな」
 黒いコートの男は、口元に笑みを浮かべながら、開けられた後部座席へと身を屈めるように乗り込んだ。
「また、悪い癖を出さないで下さいよ」
 ハンドルを握りながら溜息混じりに言う男は、口元を緩める事はなかった。
「真木……うるさいよ。私の運の良さは知っているだろう?」
「はいはい」
 真木と呼ばれた男は、会社設立時から片腕として過ごしてきた。仕事以外の話となれば気軽な口を聞ける程の付き合いも信用も得ている。


 秋山凜太郎、二十九歳。現在多くの会社を経営し、世間では若手実業家としてもてはやされていた。運だけの男と陰口を叩く輩もいたが、決して運だけでは今の地位は築けない。多くの事を勉強し、努力する事を惜しまない。そして何よりも勘の良さは動物的だった。
「もう一度会えるよ」
 凜太郎が後部座席から、嬉しそうに呟く。
「はぁ……」
 真木は、さすがにそれは無理だろうと思った。出張先の遠い土地ですれ違った程度の縁、そんな人間と再び出会う事など奇跡に近い。
「赤い雪が降りますよ」
 揶揄するように真木は、空を舞う白い雪を見上げながらそんな言葉を呟いた。
「ふふふ、いいね。赤い雪を降らせてみせようか?」
 凜太郎が言うと本当に降るかもしれない。何故か真木は背筋が冷たくなり、ぶるっと体を震わせた。赤い雪など見たくない。

「着きましたよ」
 真木の声に、後部座席でうつらうつらしていた凜太郎は、ゆっくりと瞼を開けた。この土地に来て精力的に動き回り、さすがに疲れが蓄積されていたのだろう。
「車を返却して来ます。まだ時間に余裕がありますから上で珈琲でも飲んでいて下さい」
「ああ、そうさせて貰うよ」

 
 乗っ取り屋と呼ばれた事もあったが、凜太郎は潰れそうな会社を復活させるのが大好きだ。勿論、立て直す基盤が無ければ乗らない。少し手を加え知恵と資金援助をすれば、傾きかかった会社が蘇る。勿論株の半分以上を買い占める事も凜太郎は忘れてはいない。働いている人間には何の影響もなく、逆に不安定だった給料が安定し感謝される。そして秋山グループの系列または子会社として名を連ねていくのだ。


 やる気のない名ばかりの社長は会社を追われてしまうが、それも自業自得。そしてそれは凜太郎の想定内である。全く恨みを買っていないとは言えないが、それは、はっきり言って逆恨みというものだ。
 真木はレンタカーを返却し、二人分の搭乗手続きを済ませてから、凜太郎が待つカフェに向かった。カフェと言っても洒落た店ではない、全国チェーンで名を知られている珈琲店ではあるが、空港を利用する人々が気軽に、珈琲と軽食を口にする事の出来る簡易な造りの店だ。

 だがそこのカウンター席に座る凜太郎は遠目からでも分かるほどに、格好の良い姿をしていた。上背もあるが、座る姿勢が綺麗だった。ざわめいた店内で、凜太郎の周りだけが空気が違うように感じる。凜太郎の背後のテーブル席の女性三人が、ひそひそと顔を近づけるように何かを話し、そして凜太郎の方をちらっと見る。そしてまた顔を近づける。
 残念な事に凜太郎はそんな女性たちには全く興味ない素振りで、珈琲カップを口に運んでいる。その口元は相変わらず緩んでいた。




◆◆まだまだ未完の作品もあるのですが、休養中に書き始めた(真冬にです^^;)ものから先に更新して行こうと思っております。

「ゆきのおと」というタイトルです。
最後まで迷って、考えて中々決まりませんでした。
未だにこのタイトルで良かったのかな? と考えてしまいます。

雪の音 2

 21, 2012 22:24
「お待たせしました」
真木はそう言うと空いている凜太郎の隣の席に腰を下ろす。
「うん、ご苦労さん。明日はゆっくりするといい」
「はい、ありがとうございます。社長は?」
「私は、特にやることもないし、真木のようにデートする相手もいないからね」
「それは社長が、えり好みし過ぎるからでしょう?」
「私は運命を信じているのだがね……赤い糸の運命を」

 本気なのか真木を揶揄しているのか分からないが、そう言うと凜太郎はまた頬を緩める。泣かせた女性の数は、数えきれない程なのに本人曰く、勝手に泣いたらしい。この男を本気で落とす事が出来る女性は果たしているのだろうか、と真木は少し気持ちが重くなってしまった。

 凜太郎には温かい家庭を築いて欲しいと心から真木は願っていた。そうでなければ自分が諦めた意味が無い。一度諦めてしまえば違う方にも目が行き真木は今、優しい恋人と幸せになりつつあった。真木は自分の気持ちを凜太郎に告白した事はなかったが、勘の良い凜太郎が気づいていない筈は無かった。それでも傍に置いてくれる凜太郎に感謝し、別の意味で憧れの男性だった。



「そろそろ時間かな?」
 凜太郎が、そう言って椅子から下りた。一八六センチある身長にカシミアのコートがとても良く栄えていて、その格好良さを見て真木の心がまた少し揺さぶられてしまう。平凡な自分が凜太郎ほどの男と並んで歩ける事が不思議なくらいだった。地味で真面目だけが取り柄だと自分も思うし、周囲の意見も多分同じだろう。
 凜太郎の横には華がある人が似合うのだろう。例えばあの……そこまで考えて真木は、その思考を全てストップし、リセットした。

 真木の脳裏を掠めたのは、夕方公園で会った青年だったからだ。あの時、運転席に座ったまま真木は様子を眺めていた。凜太郎の手を取ることなく、さっさと行ってしまった青年。いや少年かもしれないが、意志の強そうなきりっとした横顔に漆黒の髪、透き通るような白い肌。ちょっと見には平凡でどこにでもいる若者の様だったが、車の横を通り過ぎた一瞬の時に、真木ですら見惚れた。華も影も持つ不思議な雰囲気の青年だった。凜太郎が興味を持ってもおかしくはないが、簡単に赤い雪など降るはずがないと、真木は心の中で否定した。

 ファーストクラスのシートに並んで腰を下ろすと、やっと真木の口から安堵の息が漏れた。あとは東京に到着するまでの一時間四十分、寝て過ごせば良いのだ。燻った心と体は明日新しい恋人が癒してくれるだろう。恋人は真木だけを大事にしてくれている。報われない恋など早く諦めろ、と優しく囁いてくれた……それでいい。
「慣れない雪道の運転ご苦労だったな」
「いえ……」
 こんな風に労わってもらえれば、真木は何も不満はなかった。疲れた目を休めるためにそっと目を瞑り、シートに深く身を沈めた。隣のシートで凜太郎が、かさかさと新聞を広げる。紙の擦れる音が真木の疲れた体に心地良く響いてくれる。


 その頃、優斗は慣れない搭乗手続きに四苦八苦しながら、やっと機内に乗り込む事が出来た。何も考えずに前の人について乗り込んだ。
(おお……凄い)初めて見る機内は想像以上に立派なものだった。優斗は切符を片手にシートのアルファベットを確認しながらゆっくり通路を歩く。
「お客様……」
 出発時刻が迫っているのだろう、CAが優斗に話しかけて来た。
「お席までご案内致します」
 その言葉に優斗は、手にしたチケットを見せる。
「こちらで御座います」
 CAに誘導されながら、優斗は子供のように後を付いていく。随分と歩かされて案内されたシートは、さっき見た席とはだいぶ違い窮屈そうな席だった。その上、四人掛けのその真ん中。そう大柄ではない優斗ですら窮屈だと感じる。それでもここに座っていれば確実に東京に行ける。それだけを考えて優斗はシートベルトを機内アナウンスに従って締め、これからの生活を思い武者震いした。

「真木、そろそろ到着だ」
 シートを少し倒していた真木に、凜太郎は声を掛けた。
「あ……眠っていました。社長はずっと起きておられたのですか?」
「ああ……楽しい事があったからね」
 真木が驚いた顔で凜太郎を見るが、その楽しい事の内容は教えてくれそうになかった。ただ凜太郎は本当に嬉しそうな顔をしていた。
「真木は、誰か迎えに来ているのか?」
 多分凜太郎は、真木の恋人が迎えに来ているのか聞いているのだろうが、社長の共で出張したのに、恋人に迎えに来てもらうわけにはいかない。凜太郎を部屋に送り届けるまでが自分の仕事だと考えていた。
「いえ」
「そう、では空港に着いたら帰っていいよ」
「え……?」
「私は用事が出来たから、真木が車を使いなさい」
「社長は?」
「私は適当に帰るから気にする事はないよ」
 こう凜太郎に言われてしまえば真木には何もする事はなかった。同行する事をやんわり拒否されてしまった寂しさは隠せなかったが、そんな女々しい事を言える立場ではなかった。
「では、車を使わせて頂きます」
「気を付けるように。疲れているのに運転させて悪いな」
「いえ……」
 優し過ぎる上司の言葉は、逆に他人行儀に感じさせる。真木は笑顔の奥に寂しさを滲ませた。
 そんな真木に気づいているくせに、凜太郎はそれ以上言葉を繋げる事をせず、じゃあと軽く手を上げて真木に背中を向けた。
「お疲れ様でした」
 真木は凜太郎の背中が人混みに掻き消されるまで見送った。


雪の音 3

 22, 2012 03:33
 真木が駐車場に着いた時に、携帯電話が震えた。思わず凜太郎かと思い液晶画面を確認するが、そこには恋人の名前が表示されていた。
「もしもし……今空港。いや真っ直ぐ帰る。明日会いに行くよ」
 簡単な会話を交わし真木は携帯を閉じた。恋人と会いたくないわけでは無かったが、万一凜太郎から緊急の電話が入った場合に、直ぐに動ける態勢でいたかったのだ。凜太郎から連絡が来る事は、九十九%無いだろうと思うが、一%の未練が真木をそうさせてしまった。


 その頃凜太郎は、空港発の高速リムジンバスに乗り込んでいた。勿論初めての経験である。
(結構いいかもしれないな……)などと思いながら、東京の街の灯りをぼんやりと眺めていた。
 凜太郎の視線の先には、緊張した面持ちで座る青年がいた。凜太郎はぼんやりとしたふうを装い、その青年の動きを観察している。青年は、メモとバス停の名前を確認するように何度も見比べていた。乗り慣れていないのが一目瞭然だ。気の強そうな綺麗な顔に時折浮かぶ不安がアンバランスで、妙に興味をそそられる。

 その青年が腕を伸ばし停車ボタンを押そうと躊躇った隙に、斜め後ろに座る凜太郎が素早くボタンを押した。自分が押さなくて済んだというように、青年の肩が安堵に揺れた。
 凜太郎は、リムジンバスから青年より先に降りた。後から降りた青年は、携帯電話を取出し誰かに電話を掛けている様子だった。凜太郎は迎えを待つ振りをしながら、その電話に聞き耳を立てる。

「えーっ! 野口、そりゃあないよ……」
『ごめん、明日と勘違いしていた。本当にごめんっ。俺だって彼女と月に二・三度しか会えないからさ……』
「う……ん。そうだよな……」
 それは嘘ではない、以前野口がそうぼやいていた事があったのを覚えている。本当に間が悪い。
「大丈夫何とかなるよ。うん、分かった。うん、明日電話する」
 優斗はそう言って電話を切り、深く溜息を吐いた。
「さて、どうするかな……」
 その呟きは、近くにいる凜太郎の耳にやっと届く程度の小さな声だった。
「これ落としましたよ」
 優斗が携帯電話をポケットにしまい、手を出した時にポケットから落ちた紙切れを凜太郎は素早く拾い上げた。渡しながらちらっと紙片を見ると、それは飛行機の半券だった。
「北海道から?」
 凜太郎は半券にちらっと視線を投げかけながらそう微笑んだ。
「あ、はい。ありがとうございます……」
 その声が酷く頼りなく聞こえるのは凜太郎の気のせいではないようだ。

「あれ?」
優斗は、凜太郎を正面から見て小首を傾げ、暫く凜太郎を見ていた。
「あああ!」
 やっと答えを見つけたように優斗が破顔し、凜太郎に向き直った。
「どこかで見かけたコートだと思っていたら、札幌の公園で会いましたよね?」
「札幌の公園?」
 凜太郎の筋書き通りなのだが、わざと凜太郎は惚けてみせる。
「ほら、俺寝ていて……貴方に救急車を呼ぼうかって言われた男です」
 優斗は全くもって無邪気に凜太郎に語りかける。見知らぬ土地で友達にも会えずに余程嬉しかったのだろうか。
「ああ、思い出しました! 君も東京に?」
「良かった……間違えていたらどうしようと思いましたよ」
 優斗は凜太郎の言葉に安堵して嬉しそうな顔を見せた。
(うん、可愛い)
「私は元々こっちの人間なのですが、バスの中で急にこれからの予定が変更になりましてね。急遽バスを降りた訳ですよ」
 凜太郎の作り話に、優斗は小さく吐息を漏らした。
「貴方も、ですか。実は俺も……」
「これも何かの縁ですから、予定がないのなら一緒に食事でもしませんか?」

「でも……」
 優斗はいくら偶然とはいえ、初めて会った人間とそこまで親しくしていいものかと躊躇う。東京には危ない人間がたくさんいると言われてきたのだ。
「別に怪しい者ではありませんよ」
 凜太郎は優しく微笑みながら、胸ポケットから名刺入れを取出し、一枚抜いた。
「秋山グループ……」
 聞いた事のある名前に優斗は警戒心を少し解いた。
「俺、桐山優斗って言います。今日北海道から出て来ました」
「そう、桐山君。もしこの後時間があれば、食事ご一緒しませんか?」
「でも……」
「私も時間が空いてしまって、一人の食事も味気ないものですからね」
 行くあてのない優斗なのだ。凜太郎の誘いに乗ってしまっても、誰も浅ましいなどとは思わないだろう。とにかくこのバス停から早く離れて明るい場所に行きたいという気持ちの方が強かったかもしれない。

 凜太郎がスマートに通りかかったタクシーを停めた。運転手に行く先を告げると優斗を労う。
「疲れただろう、遠くから」
「いえ、秋山さんも飛行機で?」
「そうだよ、君と同じ便だったみたいだね」
 凜太郎は、半券が捻じ込まれた優斗のポケットに視線を投げながらそう答えた。
「そうだったんですか。俺たち縁がありますね」
「そうだね」
 優斗の言葉に凜太郎は口元を緩める。縁は作るものでもあるのだがね。と心の中で呟いた事など優斗は知るはずもない。

雪の音 4

 09, 2013 01:28
 優斗が連れて行かれた先は、ホテルの中にある高級な日本料理店だった。従業員の丁重な応対はあの名刺が嘘でなかった事を証明している。
「よく来るんですか?」
 優斗の問いかけに凜太郎は笑顔を見せた。
「いつもは本店の方だけどね」
「俺はこういう高そうな店は初めてです。だから……その、粗相があったらすみません」
「大丈夫だよ、個室だし。それに食事は美味しく食べる事が一番だから気にする事は無いよ」
 優斗は、凜太郎の言葉に安堵し小さく頷いた。


 コースで運ばれてくる料理は、優斗には食べた事のないものばかりだった。優斗はさりげない凜太郎のリードで料理の順番を覚え、味を覚えていく。口に入れる料理はどれも美味くて優斗も肩から力が抜けていった。
「東京には旅行?」
 切子の升グラスで日本酒を飲む凜太郎に聞かれ、優斗は夢のような空間から現実に戻された。
「いえ……」
 考えないようにしていた今夜からの身の振り方。友達をずっと当てにするつもりは無かったが、初日からこれでは気落ちしてしまう。突然表情が暗くなった優斗に凜太郎は質問を続けた。

「旅行でないとすれば、大学? それとも就職かな?」
「まあ……そんなもんです」
 優斗は初めて会った男に今夜からの相談をするつもりは無かった。何となく流れで一緒に食事をしたが、何も持っていない自分が付き合える相手ではないという事ぐらいは知っている。
「あの……今夜は本当にご馳走様でした。そろそろ俺」
 この店に入る時に、こんな高そうな店では食事が出来ないと断った優斗に、ご馳走させてくれと凜太郎は、遠慮する優斗の背中を押してこの店に入ったのだ。

「行く当てがあるの?」
「はい。別の友達の所に……」
 本当は、約束などなかったが都会ならば、ファミレスやネカフェがたくさんあるだろうと優斗は踏んでいた。
「そう? でもまた今度食事に付き合ってもらえるかな?」

 凜太郎は優斗を強いて引き留める事はしなかった。
「必ず電話くれるよね?」
 凜太郎の、目の強さは否定を許してはくれそうにない。
「はい……」
 携帯番号は食事中に交換させられた。だが今後この男とコンタクトを取るような事はないだろうと、優斗は考えていた。住む世界が違い過ぎるのは若い優斗でも分かる。自分から電話をかけて誰? などと言う言葉は貰いたくはない。
 余計な傷は無い方がいい。優斗はそう思いながら礼を述べ、店を後にした。
「さてと……」

 今夜二度目の台詞を吐き、それに気づき優斗は苦笑を漏らした。
「一晩くらいどうにかなるか」
 優斗は諦めたような顔で、独りごちる。腹が満たされた今は、ファミレスは少しきつい。優斗はネカフェを探すために、自分にそぐわない一流と呼ばれるホテルのロビーを抜け表に出た。目の前には東京の巨大なネオンが、優斗を拒絶するように聳えていた。

 優斗が東京に出て来てから一か月が過ぎた。だが未だに就職先が決まらない。こっちに来た日にはアクシデントがあったが、翌日から一週間、友達はいやな顔もせずに泊めてくれた。その間に安いアパートも借りる事も出来た。勿論母親に頼み保証人になってもらった。

 築十五年程の学生向きのアパートは、予想よりも安く借りる事は出来たが、それでも就職先の決まらない優斗には次第に負担になってきていた。
 高校しか卒業していない優斗が正社員として潜りこむには厳しい現状だった。高望みはしていないが、面接の手ごたえはあったにも関わらずに、不採用の通知を優斗は受け取る日々を、やりきれない気持ちで過ごしていた。
「夢は見るなって事かな……」

 夢も希望も持って上京した優斗の気持ちが、次第に萎んでくる頃に、忘れていた男からの電話を受けた。
「私を覚えている?」
「あ……はい」
 食事をご馳走になった翌日に一度だけ礼の電話を入れた。秋山凜太郎、自分とは住む世界の違う大人の男だ。
「また食事をしようという約束も覚えている?」
 優斗はあの時の言葉は、社交辞令だと思っていた。
「ええ……」
 だから煮え切らない返事をする。
「今夜何か予定がある?」
「いえ」

 予定など何も無い。最後に受けた面接の結果はさっき届いたばかりだった。もう何の予定も優斗には無かった。
「それは良かった。食事に付き合ってくれるよね?」
「俺なんかと食事しても面白くないでしょうに」
 卑屈とも思える言葉が今の優斗から出て来ても、仕方がないような精神状態だった。
「迎えをやるから、住所を教えて」
「そんな、迎えなんかいいです。場所を教えてもらえれば行きます」

 食事を一緒にする事を承諾する前に、迎えの話をふられ、優斗はいつの間にか凜太郎の申し出を受け入れている事に気づかなかった。
「嫌いなものは無い?」
「はい……あ」
「ん? 何か食べたいものでもあるの?」
「いえ……出来たら普段着でも行ける所でお願いします」
 金持ちの凜太郎の事だ。とんでもない店に連れて行かれるかもしれないと、優斗は予防線を張った。
「大丈夫だよ。私に任せて」

 優斗は言われた店の最寄り駅まで行き、そこで迎えに来てもらう約束をして駅に向かった。初めて会ったあの日と何ら状況の変わらぬ今の自分を、凜太郎に見られたくなかったが、今日食事の誘いを断っても、応じるまで誘うと凜太郎に言われてしまえば、時間のある今日の方が優斗にも都合が良かった。

 普段着よりも少しだけお洒落をした優斗が連れて行かれた店は、これもまた高級と一目で判る中華料理店だった。ざっと見たメニューは良くは分からなかったが、料金だけは読めた。
「俺、特に嫌いなものは無いので、秋山さんにお任せします」
「そう、では適当に頼むよ」
「はい」
「君にひとつお願いがあるのだけど聞いてくれるかな?」
「俺に出来る事なら……」
 果たして自分に出来る事などあるのだろうか、と思いつつもそんな返事を優斗は返した。
「私の事は、秋山さんではなく、凜太郎と呼んでくれないか?」
「はい?」
 優斗は驚いて尻上がりの言葉で聞き返した。

「だって、君と私は仕事を通じての関係ではないだろう? 秋山さんって呼ばれると、どうも仕事から離れられない気がして落ち着かないのだよ」
 凜太郎は口元を緩めながらそう言った。優斗は、その気持ちは分からないではないが、年下の自分が気安く名前を呼べるような立場の人ではないことくらい、分かっているつもりだった。
「でも……」
「私も優斗と呼ばせてもらうよ」
 まるで同年代の友達のような言葉に優斗はどうしていいか分からずに、円卓の縁をなぞっていた。
「ほら、呼んで」
「り、凜太郎さん……」
「嬉しいよ、優斗。ありがとう。これで私と優斗は友達だ」
「はあ……」
 無邪気に喜んでいる凜太郎に水を差すのも悪い気がして、優斗は口を噤んだ。どうせ、頻繁に会う事は無いだろうと思いながら。
「たくさん食べて。最初に会った時よりもだいぶ痩せたのではない?」
「まあ……」

 痩せた事は自分でも分かっていた。なんせ切り詰められる物は食費くらいしかない。
「ありがとうございます。遠慮なく戴いています」
 実際この店の料理はどれを食べても美味かった。久しぶりの贅沢に若い優斗は進められるまま腹いっぱい食べていた。
 腹が満たされると優斗も、凜太郎に問われるままに、現況を語っていた。自分が惨めにならないように、まだ余裕のあるふりをしながら語り続ける。
 だが、優斗は本当のところ余裕などなかった。働きだしてひと月後に給料が入るとすれば、今月中に仕事を決めないと食べていくのも難しくなるのだ。

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こんばんは。「雪^^;の音」を再開する事にしました。
私も内容を忘れているくらいです^^;
ゆっくりですが、更新していきます。
時間を見つけて、他の話の番外や、放置してある話の続きを書ければ……と思っております。

沢山のコメント本当にありがとうございます。
忘れられていなかった……そう思うと胸が熱くなります。
読みに来て下さって、ありがとうございました。

雪の音 5

 10, 2013 00:01
 肩書の多い凜太郎の前で弱音を吐くと、まるで仕事を紹介してくれと言っているようなものだ。何故か優斗にはそれが出来なかった。上手に世渡り出来る奴なら、きっとこの秋山グループの社長である凜太郎を上手く利用したのかもしれないと思いもした。
「自分のやりたい仕事と巡り会えるまでゆっくり探しますよ」
 そう言って優斗は笑顔を見せた。これでこの話は終わりだと言うように。
「私なら優斗の望みを叶えてあげられると思わないのか?」
「そうかもしれませんね。でも俺は……」
「優斗、今の日本の人口を知っている?」
「え、人口ですか……」
 突然話を変えてきた凜太郎に優斗は向き直る。
「一億くらいですか?」
 きちんとした数字は優斗も気にしていなかった。
「一億二千八百万人は超えているよ」
「そうですか、結構多いですね」
 凜太郎がどうしてそんな話を始めたのか、優斗は理解出来ない。
「そんなに多くの人間がいるのに、私と優斗は一日で二度も出会った。それも全く違う土地で、だよ。凄い事だと思わないか? 万が一あの飛行機が墜落でもしていたら、私と優斗は一緒に天国に昇ったかもしれないのだよ」
 凜太郎は内心、違う天国なら一緒に昇りたいが、などと思いながらそんな事を言っていた。
 言われてみればそうだと優斗も思うが、だからと言って凜太郎を頼ってもいい、という答えには結びつかないのだ。
 ふっと凜太郎がため息と共に失笑を零す。
「優斗もたいがい頑固だね」
「……」
 頑固でなければDⅤの父を持ち、自分を保ってはこられなかったと、優斗は言葉には出さずに胸の中で反論していた。父の暴力は母にだけ向いていたわけでは無い。いや優斗の方の被害が大きかったかもしれない。顔に痣を作りパートには行けない事を父は分かっていたから、その分優斗に向かう事が多かったのだ。自分にひとつも似た所のない優斗を、もしかしたら父は憎んでいたのかもしれない。他人を見るような父親の視線に何度震えたことだろう。その数は数えきれない程だった。

「私に頼るつもりはないの?」
 その言葉に驚いて優斗は凜太郎を正面から見据えた。何故か自分を気に入っているふうなのも不思議だ。何の取り柄もない自分を食事に誘うのはまだ分かるが、仕事となれば別問題だろうと思う。その思いが優斗の首を横に振らせてしまった。
「ありません……。俺は凜太郎さんの希望に適うような人間ではありません」
 凜太郎の名刺の裏に書かれた関連会社はどれも一流と呼ばれる会社だった。学歴もない自分が今そこにコネで入ったとしても、長続きなどしないだろう。
「今日は、ご馳走様でした」
 優斗はいたたまれなくなり、席を立った。
「まだ帰さないよ。もう一件付き合ってもらいたい。軽く飲まない?」
 言葉使いは優しいが、凜太郎の言葉にはいつも逆らう事の出来ない何かがあった。この威圧感が人の上に立つ者だと優斗に知らしめる。

 結局、優斗が次に連れて行かれた店は、小さなバーだった。それは意外だったけど、それでもその場所は雰囲気も良く凜太郎に相応しいような店だった。スツール一つをとっても優斗でも判るほどに高級感が漂っていた。
「いらっしゃいませ、秋山様」
 バーテンが凜太郎に向かい軽く会釈してからら優斗に視線を投げる。少しだけ驚いた目をしたが、優斗は気づかない。
「私はいつものを。優斗は何がいい?」
「俺は……よくわからないので任せます」
 まだ二十歳になったばかりの優斗だ。そうそうに酒を飲む機会もないし、こういうバーに来た事も生まれて初めての事なのだ。酒の名前などビールとチュウハイくらいしか知らない。
「布施君、ではこの子にはスクリュードライバーを」
「はい」
 布施と呼ばれたバーテンは頷くとカクテルを作り始めた。カシャカシャと格好いい仕草でシェーカーを振るのを優斗は黙って眺めていた。優斗の前にオレンジジュースのようなカクテルが置かれた。凜太郎の前にはオリーブの実が入ったカクテルが置かれる。
「では乾杯しようか。私たちの奇跡的な縁にね」
 凜太郎はグラスを手にし、優斗に向かってわざとらしくウィンクをしてみせる。そんな気障な仕草もさまになる凜太郎がやけに格好良く見えた。
 いや実際に男の優斗が見ても凜太郎はかなり格好いい。身長も百八十は軽く超えているだろうし、顔の造作も半分異国の血が混ざっているのではと思う程に彫が深い。深い色の瞳に見据えられたら普通の人間なら恐怖すら感じるかもしれない。
 三杯目のグラスを空にする頃には、優斗の体も浮遊感に包まれ、今まで研ぎ澄まされていた神経も弛緩し始めた。
「お酒あまり強くないの?」
 どうして年上で偉い立場の男がいつも丁寧な口調なのだろうか、などと思いながら優斗は、こくんと頷いた。口を開くのも少し億劫になってきていたからだ。
 凜太郎は、最初こそは弱くて飲みやすい酒を優斗に勧めていたが、二杯目三杯目と少しずつ度数を強くした酒を出させていた。それに気づかずに優斗は同じペースで飲み干す。
 酒に上気した頬と潤んだ目で、優斗は凜太郎を見上げる。
「凜太郎さんって酒強いですね」
「慣れだよ」
「そうか……俺もそのうちに酒に強くなれるかな? 俺はね、酒に飲まれる人間が一番嫌いなんです。親父みたいな……」
 優斗の語尾は非常に弱く、凜太郎には聞き取りにくいものだった。
「そろそろ帰りますか?」
「はい……」
 そう言ってスツールを降りた優斗の足がもつれ膝が折れた。だがその瞬間に優斗の体は凜太郎に抱き止められていた。

 優斗は雲の上のような心地よさに薄く目を開いた。誰かが自分を横抱きにして、背中でドアを押し開いている。
「あ……」
「気が付きましたか?」
 優斗の小さな声を拾い、囁くように言葉が返って来た。
「凜太郎さん? 俺……」
「帰りの車の中で眠ってしまって、住所も分からないので、ひとまず私の部屋に連れて来たのですよ」
 そう言われながら、高級な革張りのソファに優斗はそっと下ろされた。
「具合は悪くないですか?」
「いえ、それより俺帰ります……すみません。ご迷惑をお掛けしてしまって」
「私がつい勧めてしまったのが悪かったのですよ」
 凜太郎は、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターのキャップを捻った後、それを優斗に渡してくれた。
「今日はもう遅いから、私の所に泊まって行きなさい」
「いえ、そんなご家族の方に迷惑掛けるような事はしたくありません」
 遠慮する優斗に凜太郎は口元を緩め、照れたように言った。
「残念ながら私には遠慮するような家族はいませんので」
「え、もしかしてまだ独身ですか?」
「まだとは失礼ですよ。こう見えてもまだ二十九歳ですから」
「あ……ごめんなさい」
 秋山凜太郎の肩書を見れば、誰もが少なくとも三十代だと思うだろう。優斗もその肩書故に年齢を聞かずに、勝手に三十代と思い込んでいた。
「ま、私も来年は三十歳になるのですがね」
 苦笑して言う凜太郎に優斗も苦笑で返す。
「今ゲストルームを整えて来ますから、少し横になっていなさい」
「そんな贅沢な……俺はこの辺の床で寝ますから大丈夫です」
 優斗の言葉に凜太郎は一瞬目を丸くしたが、却下と笑いながら奥の部屋に消えてしまった。


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雪の音 6

 11, 2013 00:01
 凜太郎とは年齢も立場も違うのに、何故か親しみが持てた。一緒に酒を飲んだ事で優斗はかなり気を許している自分に気づいた。だがまだ酔いが回っている優斗は、凜太郎がベッドメイキングしていた僅かの時間に眠りに落ちてしまっていた。
「おや、気持ち良さそうに寝ている」
 凜太郎は、ソファの上ですやすや寝息を立てる優斗を横抱きにする。
「随分と軽いな……」
 見た目で痩せた事には気が付いていたが、抱き上げる事でそれは実感として凜太郎に知らしめる。ちょっとやり過ぎだったかと思ったりもしたが、それも今更だ。
 凜太郎は、優斗をゲストルームのベッドにそっと横たえて、寒くないように肩まで布団を掛け、ぽんぽんと胸の辺りを叩いてから部屋の灯りを消した。

 翌朝優斗は、すっきりした気分で目覚めた。最近就職の事が気になり熟睡できなかった体が、ようやく休まったような気がした。だが、はっとしたように飛び起きる。自分の煎餅布団ではない程よいスプリングに違和感を覚えた。
「ここは……」
優斗は慌てて昨日の事を思い返しながら、枕元にあった携帯電話で時間の確認をした。朝の七時は、優斗が普段起床する時間だ。優斗は部屋を見回しながら、この部屋が凜太郎の部屋だろうと気づいたが、昨夜の記憶は所々しか残ってはいない。
 優斗はそっとドアノブを回し部屋の外に出た。凜太郎はまだ眠っているのか、リビングはひっそりとしていた。凜太郎の寝室らしいドアが少し開いている。
「凜太郎さん……まだお休みですか?」
 だが、そこには大きなベッドがあるだけで人の気配が感じられない。抜け殻のベッドを触ると微かな温もりが感じられた。遠くで水音がする。
「シャワーか……」
 優斗は小さく呟いて、凜太郎の寝室を出る。
 優斗が寝室の扉を後ろ手で閉めた時に、リビングに誰かが入って来た。
「あ……っ」
 鉢合わせたふたりは、同時に驚いた声を上げる。この部屋の主の凜太郎ではないサラリーマン風の男が、朝刊とバケットが入った紙袋を持って立っていた。
 フレームレスの、眼鏡の奥から視線が鋭く優斗に突き刺さる。
「君はここで何をしているのですか?」
「あ……」
 突然詰め寄られて優斗は言葉に詰まって狼狽えてしまった。
「幾らですか?」
「え?」
 その男は、紙袋をテーブルの上に置くと、胸元から財布を取り出しながら優斗に聞いて来た。優斗の視線の端にバケットが見える。あぁこれから朝食の準備なのか、などと全く関係ない事が頭を過る。それほどに、男の口から出て来た言葉は優斗には意味の分からない言葉だった。
 だが、男は財布から数枚の万札を抜き、それを茫然としている優斗の胸に押し付ける。
「え、何ですかこれ?」
「まだ足りないと言うのか? それを持ってさっさと帰りなさい。君みたいな男が来る所ではない」
「どういう意味ですか?」
 眉間に皺を寄せながら聞く優斗に、男は怒り抑えたような、唸るような声で「帰れ」と言い放った。
そして、優斗の肩を強く押し玄関の扉を開ける。
「あの、何か誤解して……いたっ」
 優斗は誤解しているだろう男に説明しようと口を開くが、その男は口を利くことすら許さないように、優斗を玄関から外に押しやった。そうしてドアの隙間から優斗の履き古したスニーカーが、汚い物のように投げ捨てられた。
 優斗は、訳も分からずスニーカーを拾おうとして、自分の手に数枚の万札が握らされている事に気付いた。汚らしい物を見るようなあの男の目と、自分の手にある金を見比べて、優斗は初めて自分が男娼か何かに間違わられたと気づく。
「ふざけるな」
 手の平の色が変わる程に、優斗は万札を握りしめていた。それを凜太郎の玄関ドアに叩きつけようとして、手を止めた。ここに金をばら撒いて他人に拾われてしまったら、自分が受け取った事になる。この金は本人に返さないと意味が無いと考え直した。
 今このドアをノックなど出来ない、優斗は怒りに震えながら駅への道を歩き始めた。

 優斗を部屋から追い出すと真木は、何事も無かったように珈琲の豆を挽きセットした。そうして手慣れた様子でキッチンに立ち、簡単なサラダとベーコンエッグをこしらえる。珈琲の芳ばしい香りが漂う頃に、浴室の扉が開き腰にバスタオルを巻いただけの凜太郎が出て来た。
「真木! 今日は休みだろう?」
「はい。でも朝食くらいはきちんと食べて頂こうと思いまして」
 凜太郎は、真木の言葉を聞き流し、ひとりゲストルームに向かった。ノックするが返事が無いので、そっとドアを開けた。だがそこに眠っているはずの優斗の姿が見えない。ベッドも乱れたままだった。凜太郎はダイニングに引き返すと、真木に声を掛けた。
「真木が来た時に誰かいなかったか?」
「いえ、誰もいませんでしたよ。どうかしました? 鍵が開いていたから変だとは思ったのですが……」
「そうか、いや何でもない」


 優斗は自分が朝風呂に入っている間に帰ってしまったのだろうか、それが少々腑に落ちない凜太郎だったが、真木にそれ以上聞く事はしなかった。
 一方真木も、何ら気にする様子を見せずに、凜太郎の朝食の支度を全て整えた。その間に凜太郎はリラックスした服装に着替えて戻って来た。真木はもう少し凜太郎の逞しい身体を眺めていたかったが、態度には出さない。
「真木は食べて来たのか?」
「いえ」
「ならば一緒に食べよう」
「いいのですか?」
 真木の顔が嬉しそうに綻んだ。
「用意したのは真木だろう?」
「そうですが……」
「どうだ、彼氏は優しくしてくれるか?」
「ええ……」
 朝っぱらからする会話ではないような気がするが、下手に凜太郎に逆らえなくて、真木は曖昧に返事をした。
「何だ、上手くいっていないのか?」
「そんな事はないです。優しくしてもらっています……」
 実際新しい恋人に何ら不満はなかった。ただ凜太郎以上に好きになれるか、と問われれば否だ。胸の中に空いた風穴は凜太郎以外では塞ぐ事は出来ない。

 平日の朝十時には、通いの家政婦がやってくる。実際真木が手を出さなくても、凜太郎には何の不便もない。だから週末は真木にとって何にも代えがたい大切な時間なのだ。
「早く一緒に住んでしまえばいいのに。そうしたら毎朝私の朝食の心配をする暇もなくなるだろう」
 凜太郎に揶揄されるが、真木は当分恋人と一緒に暮らすつもりは無かった。もしあるとしたら、それは凜太郎が幸せな結婚をした時だ。同性しか愛せない真木には無理な事だが、両方愛せる凜太郎には結婚という道がある。断じて他の男と一緒に暮らした時ではない。凜太郎には人も羨むような美人で気立ての良い奥さんを貰って欲しかった。

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読んで下さりありがとうございました。
今日こそ、コメントのお返事をと思いながらも……
時間が足りません。しばしお待ち下さい♥♥

雪の音 7

 12, 2013 00:01
 真木の脳裏に、先ほど見た青年の驚いた顔が浮かぶ。
 あの青年だ……札幌で偶然出会った美しい青年。何故彼が凜太郎の部屋に朝からいたのか、真木は全く分からなかった。赤い雪など絶対降らせない。真木は、自分が愚かしい事をしたと自覚はしていたが、それでもあの青年を許せなかった。凜太郎の寝室から出て来た青年を殴らなかった自分を、褒めてやりたいとすら真木は思っていた。
 そうして、以前自分が凜太郎に揶揄するように言った言葉が、今の真木には重く圧し掛かって来ていたのだった。
『赤い雪が降りますよ』
 間違っても赤い雪など降らせてはならないと真木は思いながら、自分が淹れた珈琲を美味そうに飲む凜太郎を見ていた。

 優斗は、ようやく帰って来た自分の安アパートのテーブルの上に、丸まった紙幣を投げ置いた。
 札幌の飲食店で夜のアルバイトをしている時に、その手の男達を何度か見た事があった。そういう男を否定する訳では無かったが、同類に見られた事は納得いかない。
 優斗は台所の小さなシンクで顔を乱暴に洗うと、髪を梳かす為に置いてある小さな鏡に自分の顔を映した。凜太郎のように精悍な顔では無い中性的な顔がそこにはあった。優斗は男娼に間違えられた怒りだけで、間違えられる理由に気づいていなかった。
 それから三日間、優斗がテーブルの上の紙幣に触れる事はなかった。だが、いつまでもそこに置いているわけにもいかず、優斗は携帯電話を開き凜太郎の名前を液晶画面に表示させた。
 暫く迷ってから発信ボタンを押した。
「秋山です」
 三回のコール音の後、凜太郎の声が聞こえて来た。優斗は怒りを抑え会いたい旨を伝える。凜太郎はいつもの調子で食事に誘うが、優斗は一度連れて行かれたあのバーを指定した。少し驚いた声だったが凜太郎は、日時を決めた後に楽しみにしているよと、電話を切った。

 先に行って待つのがいやだったから、優斗は約束の時間よりも十分程遅れてバーに入った。忙しいだろう凜太郎はもうカウンターの椅子に腰を下ろしている。後姿を見ただけで凜太郎と分かる。体格も雰囲気もこの店内にいる誰よりも立派に思えた。だから余計に悔しい。
「こんばんは」
「やあ待っていたよ」
 それは咎めるような口調では無く、本当に嬉しそうな声だった。
 だが、優斗は座る事なくカウンターの上に手を突くと、握り拳の中から皺くちゃになった紙幣を落とした。
「今日は、これを返しに来ただけですから。じゃあ」
 優斗はそれだけ言うと踵を返した。
「待ちなさい」
 優斗の後姿に、凜太郎の厳しい声が掛かった。だが立ち止まるつもりは優斗には無い。乱暴に扉を開け、地上への階段を一気に駆け上がった。全てを振り切るように。
 優斗が歩道に飛び出た途端、二人の男と鉢合わせしてしまう。
「あ、すみません」
 そのうちの一人と肩が当たってしまい、優斗は素直に詫びた。痛いと思わない程度の接触だった。
「痛いな」
 だが、返された言葉は優斗を責めるような口調だった。
「すみません」
 優斗は仕方なくもう一度謝り立ち去ろうとしたが、もう一人の男に肩を掴まれた。泥酔という程では無かったが、多少アルコールが入っているサラリーマンには見えない二人連れだった。肩を掴んだ男が優斗の顔を覗き込む。
「へえ、君幾ら? 君みたいな子なら三万円出すよ」
 その言葉が終わらないうちに、優斗は男に殴りかかった。
「ふざけるなっ」
 叫ぶと同時に手が出ていた。だが相手は二人だ。殴られた男は一瞬茫然としたが、もう一人の男が応戦して来た。
 だが優斗も負ける気などない。自分が凜太郎から受けた屈辱まで晴らすように、二人に挑みかかった。再び振り上げた腕を後ろから抑えた男がいた。
「止めなさい」
 振り向かずともそれが誰の声か優斗には分かる。
「離せよっ」
 優斗は凜太郎の手を振り解こうとするが、凜太郎の力は強くて解けない。そんな優斗の顔面に向かって喧嘩相手の拳が飛んで来たが、当たる寸前にその手も凜太郎によって遮られた。
「ふん、先客がいたのかよ。あんたは幾らで買ったんだ?」
 優斗に幾らかと聞いて来た男が吐き捨てた。だがそう言った男は、その数秒後には歩道に叩きつけられ唸っている。いったい何が起きたのか優斗は直ぐには理解出来なかった。それほど素早い行動だったのだ。
「な、何やって……」
「行こう」
 凜太郎は、何事も無かったように少し乱れたコートの裾を直すと、優斗の腕を取ったまま歩き出した。凜太郎の剣呑なオーラに男達は何も言えずに、ただ見送る。
「離せよ」
 少し歩いてから、我に返ったように優斗が手を振り払った。
「あのお金は何?」


 その目は、さっき男を殴った時よりも酷く冷たく見えた。でも優斗はここで怯む訳には行かない。まだプライドは残っている、僅かでも。
「あの金は……その前にひとつ聞いていい?」
 凜太郎が自分のプライドの為に、手を出したのか、それとも優斗の為に出したのか気になっていた。 
「いいよ、何を聞きたい?」
「さっき何故あの酔っ払いを殴ったの?」
「優斗を貶めるような事を言ったからだろう?」
 何の迷いもなく凜太郎は即答した。その答えに優斗は、もしかしたら自分が抱いた怒りは間違いだったのか、とすら思えてきた。だが、現実に優斗は金を握らされた。
「で? さっきの答えは?」
「あれは、あんたが俺に払った金だろう?」
 優斗は、もう凜太郎さんなどとは呼びたくなかったから乱暴な言葉を使った。
「私が、優斗に?」
「正確には、あんたの部屋に来た人……」
 優斗の言葉を聞いた凜太郎は、何故か納得したような顔をした。やはりこの男の目的はさっきの酔っ払いと同じだったのかと、優斗は少し浮上しかけた気持ちを再び沈めた。
「申し訳ない事をした」
 凜太郎は言い訳もせずにただ詫びを入れる。
「じゃあ、そういう事で。金輪際あんたと会う事は無いと思うけど」
 そう言い捨てて優斗は、凜太郎から逃げるように駆け出した。その背中に自分を呼び止める声が聞こえたけれど、優斗は振り返るつもりは毛頭なかった。凜太郎の事をいい人だと思っていた自分が腹立たしい。そう思いながら優斗は、息が上がる所まで走り続けた。

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予約投稿していたのに……失敗^^;

雪の音 8

 13, 2013 00:01

凜太郎が奇跡と言った縁は簡単に切れてしまった。
 アパートのある駅に降り立った優斗はその足で、駅周辺にある飲み屋を外から見て歩いた。もうどこでもいいから仕事を決めようと考えていた。幸い東京の街はそう大きくない駅でも駅周辺はかなり賑わっていた。今さら仕事を選んでいる場合ではない。とにかく食べて行くためには、定収入が必要だった。夢を見るのはその後でもいい。自分が諦めなければいつでも夢は追える。
 優斗はその足で、以前チェックしていた居酒屋に向かった。夜の十時から朝方四時までのアルバイトは、二か月経った今でも募集していた。本当は酔っ払いと関わるような仕事には就きたくなかったが、背に腹は代えられない。
 思い切って扉を開けたのに、店長不在の為明日連絡してくれと言われ、優斗は肩を落とした。勢いで決めてしまいたかった。
 出鼻を挫かれた気分で、優斗はアパートに向かった。最低な気分からは簡単に抜け出せそうもなく、近くのコンビニで発泡酒と乾き物を買って帰った。元々酒が強い方ではないが、父親と同じ血が流れていると思えば、深酒をする気も起きなかった。
 先日凜太郎と一緒に飲んだ酒は美味かったとふっと思い出し、優斗は唇を噛んだ。さっき否定してくれれば自分はまだ凜太郎を信じたかもしれないのに、と思ってもそれだけの縁だったとまた諦める。
 ポケットから携帯電話を取出し、着歴を見ても誰からも着信は無かった。少しだけ期待した優斗は残りの発泡酒を一気に煽り、布団に寝転がる。明日の面接は良い結果になればいいと願いながら一人寂しく眠りに就いた。
 だが、優斗の願いも空しく昼ごろに掛かって来た店長からの電話は、優斗が応募して来た少し前に決まったとの事。優斗はここまで運に見放されれば天を仰ぐしかなかった。

 その日から優斗は、コンビニ、ファミレスと比較的募集の多い店を探し手当たり次第応募した。だが結果は悲惨だ。断られる理由も様々で優斗は戸惑った。もしかしたら、自分が気づかないだけで、人に嫌われる何かがあるのかもしれない、などと優斗は考える始末だ。ショーウィンドウに写る自分の姿を立ち止まって眺めた。狭いアパートには小さな風呂が付いていたが洗面台までは付いていない。最近大きな鏡で自分の容姿を確認した事がなかった。まだ一度も染めた事のない髪は、黒々と現代っ子らしからぬ艶をしている。優斗は爪の先までチェックしてみるが、清潔に切り揃えた爪先には汚れは一切見られない。
 溜息を吐いた視線をウィンドウに戻すと、優斗の背後に黒い革ジャンを着た男が写った。少し気になって優斗は振り返った。だが現実の目は革ジャンの男の姿を捕える事は無かった。優斗は眉根を寄せると、止めていた足を動かしその場を離れた。
 あの男の姿を視野に入れたのは三度目だ。二度目までなら偶然もありうるが、三度目となればそうではないかもしれない。場所も時間も違う。優斗は沈んでいた気分が、重石を付け、もっと深い所に沈んで行くようだった。
 その時ポケットの中の携帯が着信を知らせる。優斗は携帯を開き名前を見た時ほっと小さな溜息を吐いた。
『優斗、元気? 今夜空いていたら飲まないか?』
「俺も野口に会いたい」
 東京に来てからはじめの一週間は、野口のアパートで過ごした。それ以来メールや電話はするものの、会う機会が無かった。場所と時間を決めて優斗は電話を切った。野口の声を聞いて少しだけ気分が浮上した気がした。

 待ち合わせの居酒屋に時間通りに優斗は着いた。優斗は先に店に到着している野口を探した。少し見回しただけで野口の姿を確認し、優斗は久しぶりに会う旧友の下に笑顔で近づいて、肩をぽんと叩く。振り返った野口の目が一瞬驚きの色を浮かべたが、すぐにいつもの表情に戻り、俺も今来た所と言う。
「生ビールでいい?」
 野口には既にジョッキのビールが届いていた。優斗は頷いて野口の正面に座った。
「優斗……お前、少し痩せた?」
「そう? 慣れない都会の生活で痩せたかな?」
 優斗は用意していた言葉をおどけた声で答えた。ベルトの穴が二つほど短くなった事は野口には言えそうもなかった。
 取り敢えず乾杯とジョッキを合わせてから、優斗も口を付ける。ジョッキをテーブルに置く時に心配そうな野口の視線が体に突き刺さった。
「大丈夫、バイトも決まったから」
 優斗の吐いた嘘に、野口が安堵の息を漏らした。
「そうか、良かったな。お祝いにここは俺が奢るよ。まだ決まったばかりなんだろう?」
「……悪いな、バイト代が入ったら今度は俺が奢るから」
 優斗は一度吐いた嘘に真実の色を見せる為に、またひとつ嘘を重ねた。旧友に見栄を張る必要な無いと思う反面、三か月も就職先はともかくバイトすら決まっていないとは、さすがにみっともなくて言えなかった。
「優斗……」
「なに?」
「絵描いていないのか?」
 野口の問いかけに、優斗は黙って自分の指を見る。そこは何の汚れもなく綺麗なものだった。
「落ち着いたら描き始めようと思っている」
 それがいつになるのか、優斗は予想もつかずに声が暗くなってしまった。だが野口は気にしないふうに溜息混じりに言葉を続けた。
「俺も優斗ぐらいに才能があったらな……」
 優斗と野口は中学校からの友達で、共に美術部に在籍し長い時間を共有していた。
「野口は?」
「俺は、趣味でたまに描いている」
「そう……」
 描き続ける事を選ばなかった野口でさえ、時々描いている。だが優斗は東京に出て来てから一度も絵筆さえ握った事がなかった。
「宝くじでも当たったら、俺が優斗のパトロンになってやるよ」
「宝くじなんか買っているのか?」
「いや」
 野口の即答にふたり噴き出しながら残りのビールを煽った。手放しそうな夢でも気にかけてくれている人間がいる事を幸せに思う。
「野口、ありがとう……な」
 野口は優斗の家庭の事情を知っていたから中高生の頃、地方の賞をいくつも貰った優斗に美大への道を問わない。
 気の置けない友達と飲む酒は楽しい。優斗は対等の立場では無かったが、凜太郎と飲んだ酒も美味かったと……だが、かぶりを振ってその記憶を消そうとした。
「どうした? ほらこれ食えよ」
「うん。美味い。彼女と上手くいってる?」
「まあな。それなりに大事にしているよ」
 少し照れたように野口は言うが、彼女に夢中だというのを優斗は知っていた。
「そう、良かったね」
「まあな、それよりこっちで彼女とか出来た?」
「まさか」
 優斗には出会いもなければ余裕もない。
「優斗もそろそろ卒業しないと、な」
 野口が揶揄するように言うが、何を卒業するのかなどとは優斗も聞かない。
「運命の出会いとかないのかよ?」
「運命……そんなのある訳ないよ……」
 優斗の脳裏を凜太郎の穏やかな笑顔が過る。
「そうかな、俺だってこっちに来て、今の大学に入ったからあいつと出会ったんだぜ、これもひとつの運命ってやつじゃない?」
「まあね……」
「それにしても優斗は高校の時もモテたのに、勿体無いよな。付き合いたいって思う子いなかったのかよ?」
「どうだろう?」
 ひと事のように言う優斗に野口は失笑している。今まで機会が無かった訳では無かったが、気持ちが動かなかったというのが本当のところだ。
「知っている奴? なんかさっきからこっち見ている気がするんだけど」
 野口の言葉に振り返ろうとした優斗だったが、それは野口に制された。優斗の頭には革ジャンの男が過る。
「もしかして黒い革ジャン着ている?」

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雪の音 9

 14, 2013 00:01
「いや、俺らと同じ年くらいの三人連れ」
「野口が知らないなら俺も知らない」
 優斗には、こっちに来てまだ友達と呼べる人間はいなかった。偶然に故郷の友達に会ったとしたら野口が知らない筈はない。
「そうか、じゃあ俺が意識し過ぎかな……」
 だけど野口の口調は何故か弱々しく、不安気だった。
 それから2時間ほど飲んで野口とは駅で別れた。久しぶりの再会と美味い酒に優斗の気持ちも幾分上昇していた。また明日からバイト探しに頑張ろうと思えて来たのも、野口のお陰だと感謝しながら長い通路を歩いていた。
 その時ふと両腕を見知らぬ男に挟まれてしまい、あっという間に近くのトイレに連れ込まれてしまった。優斗は自分の身に何がおきたのか分からず引きずられるままに、個室に押し込まれた。

「何だよお前ら!」
「お兄さん綺麗だね、俺らと遊ばない?」
 両手を押さえた二人以外にもう一人……その顔に見覚えがある。先日凜太郎と一緒の所を絡まれ凜太郎に殴られた男だ。
「あ、あんたは……」
「覚えていてくれたとは嬉しいね」
 強張る優斗に比べて男は随分余裕で、優斗を揶揄するような言葉ばかりを吐いている。
「離せよ、お前らなんかと遊ぶ暇はないんだよ」
 優斗は怒りを籠めた目で男を睨み付けるが逆に嗜虐心を煽るのか、男はにやにやしているばかりだった。
 優斗が二人の腕を振りほどこうともがくが、簡単には腕を離してもらえそうになかった。
「金なんか持ってないから」
 実際優斗の財布の中には数千円の金額しか入っていない。全部野口が出すというのを無理して半分払ったのは男の意地と、野口に心配を掛けたくない気持ちからだった。こんな男達に金を渡すのなら全部自分が払えば良かったなどと、身動きの取れない体でそんな事を考えたりしていた。
「お金ないの? それは残念だね。でも金が目的じゃないんだよね」
 相変わらず男は口元に笑みを浮かべ優斗を揶揄する。
「お兄さんならその気になれば幾らでも稼げるよ。でもその前に俺が味見するけどな」
「な、何言って……」
 男の目的が自分の体だと、ここまで聞けば優斗も理解できる。だけどこんな狭いトイレの中に四人の大人が立っているだけで酷く窮屈だ。優斗はどうしてもここから逃げ出す必要があった。どこか知らない所に連れて行かれでもしたら、自分独りでは逃げ出す事も困難だろう。そう思うと急に恐怖が襲ってくる。この個室から出る事さえ出来れば、外には溢れる程の人間がいるのだ。だがそれは簡単な事では無い。
 そんな優斗を見ながら男は言葉を続ける。
「逃げようなんて思っても無駄だからな。ここで会ったのも何かの縁だと諦めるんだな」
「縁……」
 優斗は自分から切った凜太郎との縁を思った。そして凜太郎に会いたいと願っている自分がいる事に気づき違う意味恐怖を覚えた。運が悪ければここで自分の人生は終わってしまうかもという時に、凜太郎を思う事の答えが見えて来たからだ。
「兄貴、場所変えましょうよ」
 優斗の右腕を掴んでいる男がそんな事を言って来た。この時がチャンスだと優斗が顔を上げた時に見えた物は男の手にある白い布きれだった。
「嫌だっ! 離せっ」
 その言葉を最後に優斗の体は男達の手の中に崩れ落ちて行った。

「意地を張るのもいい加減にしたらどうだ?」
 遠くからそんな言葉が聞こえて来た。まだ完全に覚醒しきれない感覚の中、優斗はゆっくり目を開けた。
 突然目に飛び込んできたのは目が痛いほどの、天井の明るさだった。自分のアパートにぶら下がっている四角い妙に和風の蛍光灯ではなく、地震が来ても揺れないシーリングライトだ。まるで自分に向かって言われたような言葉が、誰かが携帯電話を片手に話していると分かって安堵の息を吐いた時に、自分の置かれている状況に驚愕した。

 優斗は野口と駅で別れた後に三人組の男に……優斗はゆっくりと首を動かし周囲を見た。そうして自分が横たわっている物がシンプルなベッドだと知った。この部屋で電話をしている男の声は聞こえるが、姿は見えない。優斗を拉致したであろうあの男達の姿も見えなかった。だからと言って安心出来る訳では無かった。いつあの男達が乱入して来るか分からない。
 優斗は気配を殺して、怠慢な動きでゆっくりと自分の体に触れて顔色を失った。さっきまで着ていたはずのシャツは身に着けておらず、ゆったりとしたТシャツを着ている。恐る恐る手を伸ばすと素足の腿に触れた。だが体に違和感は無いような気がしたが、動かしてみないと分からないような気もする。気を失っている間に凌辱されたのかもしれないと考えると、腿に置いた手が僅かに震えてしまう。

「とにかく早く来いよ」
 男はその言葉を最後に、電話を切ったようだ。そして男の気配が優斗に近づいた。優斗は強張った体を気づかれないように、眠ったふりをしていた。実際に良くない薬品を嗅がされたせいで頭ががんがんと警鐘をならしている。この男を突き飛ばしてでも逃げ出したいが、多分思うように体は動かないだろうと観念した。逆に電話で呼んだ誰かがここに到着するまで体を休めていた方がいい。
 優斗は長年父親の暴力を、伊達に耐えていたわけでは無かった。父の暴力からは簡単に逃げられなかったが、多少なりともかわす術は学習していた。
 その時男の体温がさらに近づき優斗の顔を覗き込む気配がした。相手が三人だったら力を振り絞ってでもベッドから逃げ出したかもしれない。ふっと鼻で笑うような気配の後、優斗はふんわりとした温かさを感じた。男の手によって足元にあった布団が肩まで引き上げられたのだ。
 男の体温がゆっくりと離れて行くのを感じても、優斗は目を開けて後姿さえ見る事が出来なかった。

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